幻の鉄道 五新鉄道を行く! 番外編1旧大塔村立阪本小学校探訪

取材中にちょっと立寄りました。”五新鉄道の沿線になる予定だった小学校”を紹介しています。

   この旧大塔村立阪本小学校は過疎化の伴い、年々生徒数が減少し、村の小学校を一つに統合して、旧村役場に程近い、大塔小学校になりました。

時は1987年(昭和62年)3月末の事でした。ちょうど、私のHPで岐阜県旧徳山村についてのページがありますが、徳山村が廃村になった時期と同じなんで

す。もし、五新鉄道があって、阪本地区まで鉄道が完成していたら、どうだったでしょうか?この小学校からの遠足や修学旅行など無き阪本駅から

出発していたかも知れません。その他いろんなドラマが展開されていたかも知れません。しかし、例え開通していたとしても、21世紀に入った今現

在、おそらく赤字ローカル線で廃線になっていた運命だったでしょう。新宮まで開通していたとしても同じ運命でしたでしょう。

なんともやりきれないと言うか、寂しいというかこの小学校を見ててそう思えてきました。旧徳山村にしろ、この小学校にしても、自分の母校が無くな

る。自分の生まれた故郷が無くなる。という何とも言えない感じです。この小学校がいつまでもここに居て欲しいと思います。

場所は五條市大塔町阪本地区の高台の所にあります。国道168号から昭和旅館の交差点(阪本交差点)を天川方面に曲がる(左折)そして、約

200mで右側に山に向かって上っていく急な坂と急カーブのある道をのぼり、頂上まで上ると到着です。

急な坂とカーブの道を登りきったところにあります。休校(廃校?)して21年経過(取材当時)しているが、あまり荒れ放題ではなかった。

徳山小学校の取材と全然様子が違う。ここの小学校は少し補修をすれば、また使えそうな遊具がそこにあった。

右の画像は阪本小学校のプール、取材時真夏でした。生徒の泳いでいる姿と元気な声が聞えてきそう。

 

小学校の校舎は1957年(昭和32年)に建てられたようです。外観も校舎内も荒らされた様子は無く、ほぼ閉校された時のままになっていた。

 

取材後いろいろと調査したが、一年に一度か数年に一度は地元の人達が手入れをするようです。(取材当時2001年頃)

 

小さなプールだがここで泳いでいた生徒は今どうしているのでしょうか? 右の画像は百葉箱です。

校舎は運動場のさらに階段を登った所にあります。よく生徒が運動場から教室まで競争していたのかも知れませんね。

木造の小さな校舎はずっと生徒の帰りを待っているようでした。

 しかし、2018年(平成30年)3月には、大塔小学校も廃校され、西吉野小学校に通学区域となり、

この校舎には生徒達が戻ることはもうない・・・。


現在は建物の荒廃が進んでおり、敷地及び校舎内は立入禁止となっていますので、ご注意下さい。


●阪本小学校の歴史 
 1873年(明治6年)6月    阪本小学校が創立。阪本村・小代村・中原村・簾村4村による組合立であり、薬師堂を校舎とした。
 1889年(明治23年)     豪雨により、校舎が流失。民家の蔵を臨時の教室とした。
 1891年(明治25年)     校舎が完成する。
 1903年(明治36年)11月  中原尋常小学校が分離独立する。
 1905年(明治38年)10月  天辻分校が開校。
 1906年(明治39年)4月   天辻分校が天辻小学校として独立する。(本格的な独立開校は7月より)
 1918年(大正7年)      高等科を併設する。
 1941年(昭和16年)4月   国民学校令公布により、阪本国民学校と改称する。
 1947年(昭和22年)4月   学制改革により大塔村立阪本小学校と改称する。
 1949年(昭和24年)11月  阪本地区にて火災発生。郵便局より出火。市場集落全焼のため校舎も焼失。小代下の集落の民家に教室を移した。
 1953年(昭和28年)     仮校舎完成。
 1956年(昭和31年)4月   阪本地区にて火災発生。阪本土木事務所より出火。校舎焼失。(後の阪本大火と呼ばれる)
 1957年(昭和32年)11月  大塔村阪本(現在地)に新校舎を落成する。
 1969年(昭和44年)4月   大塔村立中原小学校を統合。
 1977年(昭和52年)4月   大塔村立天辻小学校を統合。
 1987年(昭和62年)4月   大塔村立辻堂小学校と統合し、廃校となる。
 
 参考文献:Wikipedia五條市立大塔小学校、大塔村立阪本小学校歴史の項目など。